心に残る一言

やられたら、やり返したくなるのは、人間の普通の感情です。しかし、「やられたら、やり返す」を繰り返していては、いつまでたっても安らぎはありません。仏教では、怨みを超えて、すべてのものを慈しむ心を、慈悲といいます。ただ、私たちにとって、怨みを超えて、慈悲の心を持つことは簡単なことではありません。昔、高校3年生が『慈悲とおもいやり』という作文を書いてくれました。
「現代は慈悲の心から離れつつある。未だに戦争が終わらない国もあり、人が人を平気で殺めることもある。そういった人たちに、慈悲の精神をもちなさい、とただ言った所で、冷たいようだが私は何も変わらないと思う。それよりも、私たちは阿弥陀様の大きな慈悲の中で生かされているのだ、と言った方が命の重みについて考えることができるのではないだろうか。私も家族も友人も、見ず知らずの赤の他人も皆生かされているのだ。皆同じ世界に住み、皆同じ慈悲の中にいる。そう思うと私は、周りの人々に対して、私には関係ない存在だ、とかどうでもいい存在だとかそういった感情はきっと生まれてこないと思う」(M.M.)(『求道』45号より)
親鶯聖人は、煩悩だらけの私たちに、「慈悲の心を持ちなさい」とは言われません。「阿弥陀様の慈悲の心に出遇ってくれ」と願っていてくださいます。阿弥陀様の慈悲の心に出遇った時、私もあなたも共に、阿弥陀様に心配をかけている煩悩だらけの凡夫だと気づかされます。そこに、少しずつではあるでしょうが、怨みを超えていく世界も開けてくるのです。
合掌

龍谷大学非常勤講師 小池秀章